ケインズ『貨幣・雇用・利子の一般理論』(岩波書店、2008年)を読んで

  ケインズ以前の古典派経済学は、需要と供給は市場メカニズムを通じ、望ましい配分に均衡されるとした。供給は自ら需要を作り出し、所得は消費と貯蓄を経て市場へと投資される。古典派によれば、一国の総生産量と国民所得を決定するのは供給能力であり、総需要の変化は価格変動を起こせど国民所得には影響しないとした。こうした想定に異を唱えたのがケインズである。


 彼が注目したのは、市場調整メカニズムの限界だ。例えば、古典派は「失業」を価格調整が完了するまでの一時的な現象とみなしている。企業の雇用量は、限界生産の効用(賃金は労働の限界生産物に等しい)と限界雇用の負の効用(賃金の効用はその雇用がもたらす負の限界効用に等しい)が一致する地点で均衡するはずだ。しかし、街には一時的な失業と見なせない大量の失業者が溢れていた。ケインズは、失業の原因は消費や投資の総需要不足にあり、需要こそが生産水準を決定すると考えた。財政政策を通じ「有効需要」の必要性を説いたのが本書「一般理論」である。

 


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 一般理論では、雇用量の決定に関する有効需要理論と、市場利子率の決定に関する「流動性選好」理論が考察される。まず雇用である。雇用水準を決定するのは、消費と投資からなる有効需要の大きさだ。総消費の変化を促す要因は、所得のうち消費に占める割合を指す消費性向、企業投資の限界効率、そして利子率である。経済発展に応じて消費性向と企業投資は減少し、やがて雇用量の低下を招く。その結果、完全雇用でない地点で雇用は均衡し、本来的な需給ギャップとは差異のある「非自発的失業」を生む。ケインズは、このサイクルを防ぐためには、利子率を下げ投資を人工的に確保する必要があるとした。


 投資の増加は有効需要を増加させるだけでない。雇用増加に伴い上昇した国民所得が、やがて何倍もの消費活動を生む。投資と国民総所得の変化を表す指標が、「限界消費性向」と「乗数効果」だ。限界消費性向が大きければ乗数も増大し、投資が雇用量に及ぼす変数も増加する。しかし、乗数効果は社会の貯蓄量と併せて考慮せねばならない。例えば、消費性向の低い国は所得の多くが消費に向けられる。たしかに乗数効果は大きいが、消費需要や投資需要への波及効果は少ない。そのため、雇用の増加まで有効需要が拡大しない。公共事業が雇用に与える影響は豊かな社会ほど大きい。


 労働雇用量を左右する新規投資の水準、資本の限界効率スケジュールは市場利子率に左右される。市場利子率は、貨幣総量と、貨幣で資産を保有しようと望む人々の流動性選好に基づく。投資を促すには、期待収益が市場金利を上回らねばならない。利子率の上昇は、投資を減少させ投資乗数の倍数だけ国民所得を減少させるおそれがある。雇用の一般理論は消費性向と投資の限界効率のスケジュール、市場金利で決定される。有効需要の原理と金利の理論は、やがてヒックスによるIS-LM分析として結実する。


 本書では「豊富の中の貧困」という発達した資本主義社会が抱えるパラドクスが指摘されている。資本主義社会は、限界消費性向と費用逓減の法則を宿命として抱え持つ。しかし、社会不安や不確実性の増大に伴い流動性選好が増大すると、投資誘因の衰退と産出量の減少を余儀なくされる。投資誘因の不足は、社会不安を増長し有効需要の不足と失業を生んでしまう。悲観的な心理がさらに悲観を助長し社会を貧しくするというリスクは、発達した資本主義社会が常に抱えているという。「潜在的に豊かな社会において投資誘因が弱いのは、その潜在的な富にも関わらず、有効需要の原理の作用によって社会は現実の産出量の減少を余儀なくされる」。ケインズが指摘するように、消費と投資は有効需要を高めなければ乗数効果として波及しない。(続

 

雇用、利子および貨幣の一般理論〈上〉 (岩波文庫)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

 

 

鶴見良行『ナマコの眼』(筑摩書房、1990年)を読んで

  ナマコは、アジア太平洋をまたぐ複雑なつながりを形成してきた。人々の動きに接する領域の産物でもあった。著者は、ナマコを通じて国家単位の歴史記述では表出されえない「周縁・辺境」に生きる人々の営みを照らし出す。

 

 19世紀、欧米諸国が中国への輸出品としてナマコに眼をつけた。ナマコ交易の拠点となったのが、フィジーや南洋諸島だ。フィリピン群島から供出された労働者「マニラメン」がナマコ加工を担った。ナマコ加工のための強制的な移住、それに伴う多種族の交流はその土地に「ナマコ語」なる特有言語を生む。西洋産業の流入は、生態環境と住民生活にも変化を及ぼしていった。銃器流入による部族間の政治的緊張の激化、伝染病伝来による人種的混乱の高まり、島民たちはナマコが交易品になるとは知る由もなかったのだ。


 南洋諸島において、ナマコは植民地経済の象徴だった。やがて、植民地支配は交易依存から内陸への直接統治へと形をかえる。土地の経済は、伝統産業と人為的に創出された換金作物という二大セクターへ分解した。


 

ナマコの特徴は、いずれのセクターにも分割できないことだ。アボリジニー華人にとって、ナマコは植民地化以前の市場商品であり続けた。マルク圏では、特殊海産物の交易と採取経済が残り今日に至っている。中央主義史観では、複雑に入り交じった辺境は省略されてしまう。ナマコ語やマニラメンは、国家単位では決して表出できない周縁の象徴だ。中央と周縁の関係、網の目状に交わる人間の複雑な関係が、ナマコを通じて描かれていく。

 

 江戸時代、金銀銅の代替としてナマコを含む俵物三品が交易品に選ばれた。著者はナマコが生産奨励品となった経緯を、士農工商という階級維持に見る。階級の枠外におかれていた漁民、彼らの生産物が便宜的な交易品として選ばれていったのではないか。物々交換と貨幣経済の両立という矛盾が、外国貿易のしわ寄せとなり漁民の生活を圧迫した。俵物交易が本格化すると、幕府は海産物の市中売買を禁じた。生活負担の増大は推して計るに余る。漁業労働で最もひどい仕打ちを受けたのが、アイヌの人々だ。当時、ナマコの4割は蝦夷産である。和人の漁業進出でアイヌの人々の生活は一変した。食料奪取、自然破壊、信仰の抑圧、政府は同化政策を採用しアイヌの営みを、中央の枠組みの中に同化させていった。


 明治政府の膨張政策以前には、一部の日本人は南洋諸島朝鮮半島ウラジオストク遼東半島に遠洋進出していたという。南洋群島では日本移民がホシナマコ産業に従事し、パラオでは紀州の零細潜水夫と糸満漁民と天草のからゆきさんの交流があった。残念ながら、現地での人々の交流を記録した資料は残っていない。日本と離れた辺境の地で生活していたという史実が残るのみである。

ナマコ文化は生食習慣から加工、調理と階級上昇を遂げ徐々に食文化として洗練されていった。人々の動きに接する領域の産物として、その「目立たぬもの」が映し出すのは、国家史では描ききれない多くの人々の営みとつながりの記録だ。


 著者は前著『バナナと日本人』で、消費の場と生産現場で搾取される労働者との乖離を描いた。一方、本書で描かれるのは、国家単位での集約が不可能な網の目状に広がる人間の営みだ。ナマコで結ばれた世界を描く筆者の試みは、様々な「目立たないもの」「忘れられたもの」を浮かび上がらせていく。本書のタイトル「ナマコの眼」は、読者の世界観を相対化させるためのメタファーだ。植民地主義を声高に糾弾する訳でもなければ、史実を単に羅列するわけでもない。著者は、躍動感に溢れる「辺境・周縁」の記録を冗長に描き出してゆく。



 

 著者がナマコに注目した理由は何だろうか。人々の交錯する領域を描くことは、米やコーヒーなどの産物でも同じような議論が可能だろう。例えば、コーヒーは人類の動きに伴って徐々に階級上昇を遂げてきた産物であり、生産の消費の現場の乖離という南北問題を象徴する消費財でもある。石油につぐ巨大市場の「グローバルヒストリー」を描くための、神話、民族史、人類学といった各種アプローチにも事欠かない。多様な意味を内包する産物という点では、ナマコにもひけをとらないだろう。


 しかし、ナマコがこの消費材と決定的に異なる点がある。それは、ナマコは国家史に集約できない「辺境・周縁」をもつことだ。中央の視点からはすくいとることのできない「辺境・周縁」に、生活を営み文化を継承してきた人々がいた。その営みは、目立たないけれど脈々と受け継がれていたのだ。 特に、本書で特徴的に描かれるのは、ナマコをめぐる人々の躍動感ではないだろうか。「周辺・辺境」の営みが躍動感溢れるタッチで描かれる、それは筆者の言葉を借りれば、歴史の闇に沈んだ人や生物に墓碑をたて冥福を祈るような行為だ。ナマコを通じて見えてきたものは、人々の躍動感溢れる営みと人間のつながりの記録だった。

ナマコの眼

ナマコの眼

 

 

川勝平太『日本文明と近代西洋』(日本放送協会出版、1991年)を読んで

 

 人類はモノを通じて、生活様式、文化、社会構成を変化させてきた。 本来、経済と文化は不可分の関係にある。しかし、経済学は通常、モノと社会の相互連関がもたらす影響まで想定しない。そこで、著者は「物産複合」という概念装置を用いて文明史の再構成を試みた。「物産複合」とは、各社会の衣食住を支える物の集合体を指す。物産複合の変化がもたらしたのは、社会や文化の変容、人間と自然の関係の変化である。本書は、モノの「棲み分け」の観点からモノの社会における受容差を検証する事で、鎖国日本と近代西欧の勃興を描いた画期的な文明論だ。


 
 アジアの旧農業文明圏の凋落と日本・欧州の新文明圏の勃興、その変容の主軸をなしたモノが「木綿」だ。17世紀、インド木綿はアジア大西洋圏に広大な需要構造を形成していた。しかし、18世紀以降の木綿市場は英国が主導することになる。背景は、英国内で木綿代替産業が育成されたことだ。当時の英国は、大量の銀流出とインド木綿の大量普及に伴う製造業空洞化に悩まされていた。国家単位でのモスリン生産傾斜、紡績技術の飛躍的進歩がイギリス産業革命を導く。19世紀以降、英国は大西洋の三角貿易を席巻することになる。


 
 一方、日本の木綿生産は17世紀以降ワタの国内移植、集約農法の開発に伴い進歩を遂げた。日英共通の特徴は、ユーラシア大陸の両端という辺境的地位を脱出し、木綿文化の隆盛地域として上昇転化した事にある。インド木綿の輸入を支える国内需要、輸入対価となる金銀銅の流出は、時の政治権力に対応を迫った。日本は多肥集約的な農法の開発、英国は資本集約的な流通生産システム確立をもって発祥地にはない合理的生産体制を発展させた。「鎖国産業革命」、国内生産体制を異にする両国がアジア貿易圏に「木綿による衣料革命」をもたらす。かつての貨幣素材供給国は、アジア経済の主導権を握るまでに成長した。開港以降、日本とアジア間の競争は顕在化され国の分業形成が促進した。国内では国内産地間競争の激化が生じたが、船来綿製品との競合関係に晒されることはなかった。なぜなら、両国の木綿は使用価値が異なっていたからだ。日本木綿の「短繊維-太糸-厚地布」、英国木綿の「長繊維-細糸-薄地布」はその性質を異にする。開港はアジア市場の編成を組み替え、日本に産業革命をもたらす成長の契機ですらあった。
 


 著者が重視するのは産物の社会における受容差である。商品は、一定の文化の中で意味と用途を見出す。文化と物を包摂する見取り図がなければ、社会の変化、文化の変容、人間と自然の関係は位置づけられない。経済を時間軸によって見る発展段階論、唯物史観とは異なる認識のパラダイムが著者の構想する「物産複合」だ。砂糖、茶、絹、磁器などの諸物産にも、モノの「使用価値」の視点は欠かせない。著者は今西錦司の「棲み分け理論」やセンのケイパビリティ論を踏まえつつ、鎖国日本と近代世界システムの勃興を「文化・物産複合」理論に昇華させてゆく。


 
 私たちの歴史認識は、時系列的な認識に基づいている。幕末期の黒船来航を境に明治維新を経て、先進的な近代西洋のシステムの導入後に経済発展に至った。それが多くの人の日本史理解だ。しかし、本書を読むと歴史認識には時間軸だけではなく、その地域の特性をも把握する「空間軸」の発想が必要なのだということを痛感させられる。大陸の辺境に対置する日英が、アジア文明と出会う。やがて、両国は「近代西洋システム」と「鎖国システム」にそれぞれ政策の舵をきる。相反する対外政策を歩んだが、19世紀半ばには、日本は周辺国に対する華夷秩序の形成、英国は流通生産システムの確立をもって発展を遂げた。この歴史的背景を解明するためには、社会の地域性と空間性を考慮にいれた上で、モノの受容差の程度、生活様式の違い、各々の発展の内実を検証する必要がある。近代西洋との比較を通じて明らかにされるのは、鎖国以降の日本が歩んだ特異性だ。近代西洋の発展の礎は、国際労働力確保にある。アジア旧農業圏からの独立は、移民と植民地という自国外の生産要素に支えられた結果だった。一方、鎖国下の日本は国内外の移民流出入を拒み、あくまでも国内で自給自足ネットワークを形成した。「なぜ日本は植民地化を免れたのか」「日本文明の特徴は何か」「そもそも鎖国とは何だったのか」それらの問いに対して、綿密な実証作業と壮大な歴史観を伴った文明論が展開されている。

 
日本文明と近代西洋―「鎖国」再考 (NHKブックス)

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考 (NHKブックス)

 

 

堂目卓生『アダム・スミス』(中央公論新社、2008年)を読んで

 本書の目的は、『道徳感情論』におけるアダム・スミスの人間観を考察し、『国富論』に結実する経済思想とその現代的意義を再構築することにある。


 『道徳感情論』では、「義務の感覚」に統御された競争の意義が考察される。スミスは、社会の秩序と繁栄を導く原理は人間の「賢明さ」と「弱さ」にあるという。人間の心には「公平な観察者」に従う正義の声と、世間からの賞賛を求めようとする欺瞞の声がある。無制限の利己心や自己愛は「一般的諸規則」により制御されなければならない。一般的諸規則とは、社会通念を考慮する義務の感覚だ。義務の感覚は、人間に正義と慈恵を要請する。有害な行為に対する憤慨、嫌悪、恐怖が法という正義の体系を生んだ。一方、人間の「弱さ」にも社会的な役割がある。それは、財産や名誉を求め競争を促す野心だ。富の増大のためには、貪欲や虚栄も必要である。しかし、義務の感覚を考慮しない競争や道徳のない野心は社会から排撃される。そこで、人間は「賢明さ」と「弱さ」の関係を考慮し日々生活している。社会秩序と繁栄の基礎を支えるこの自然摂理を、スミスは「見えざる手」と名付けた。


 
 国際秩序の形成と維持にも、本来は「公平な観察者」の原理が働くという。外国貿易は国民間に「同感」を形成し、国際法を結実させる。外国貿易を通じた交流は、やがて国民間の偏見を融解し「連合と友好の絆」を築く。スミスはそう考えた。しかし、現実の外国貿易は国家間の「不和と敵意の源泉」にすらなっている。その理由として、スミスは重商主義政策と肥大化する外国貿易の是正を指摘した。当時の欧州各国は、外国貿易拡大と植民地獲得に邁進した結果、農業や製造業などの国内産業が空洞化していた。



 特権商人や大製造業者が権益を斡旋し、貿易決済品となる金銀に資本が過剰投下されていたことが原因だ。本来、経済発展は剰余生産物の増加に伴う農業、製造業、外国貿易の部門拡張によって拡大する。国の豊かさを邁進させるのは、労働生産性の上昇、分業に伴う生産部門の労働者増加だ。しかし、政府の浪費や資本階級の優遇によって、本来的な経済発展の順序は妨げられてきた。スミスは、この不均衡な経済発展に邁進する欧州各国に警鐘を鳴らす。現状に至った欧州の歴史を概括し、経済発展のあるべき一般原理をまとめた著作が『国富論』である。『国富論』では、繁栄の一般原理として「分業」と「資本蓄積」が考察される。分業は生活水準を向上させ、資本の蓄積は投資を加速する。資本投資は農業、製造業、外国貿易の順序が望ましい。この順序は、生活を営む必要性、投資の安全性、土地への本性的愛着に基づく。ものごとの自然な成り行きに従った経済発展とは何か、スミスは本来の経済発展の経路に復帰するための構想を展開する。


  
  本書で明らかになるのは、スミスの人間の本質を見抜く洞察力、人類の存続と繁栄を願う情熱に溢れた人間性である。特に『道徳感情論』には、スミスの人間観と社会観が凝縮されている。私は本書を読んで、アダム・スミスという人はある意味で、非常にジャーナリスティックな感性をもった人だったのではないかと感じた。その理由は、自らの思想の立脚点を国家の発展ではなく個人生活の充足に置いたこと、国家の浪費と資本家の権益独占に対して経済政策の代替をもって反証したこと、「国益」という言葉でカモフラージュされる植民地拡大と戦争遂行のための国債調達に、明確に反論したことだ。また、アメリカ植民地の独立運動を考慮し植民地の自発的分離と独立国承認を政府に提言した逸話、外国貿易は国民間の交流を深め「連合と友好の絆」の国際法を築くという構想は、スミスのジャーナリスト性を伺わせる考察と感性に満ちている。


 
 では、現代社会に向けてスミスが残した遺産は何か。一点目は、人間が抱える「弱さ」に焦点をあてたことだろう。スミスは、人間の弱さが社会を発展させた指摘する。社会発展の基盤は共感と道徳心にある。また、経済発展の主体は国家ではなく生産者と労働者が生み出す「労働価値」だ。個人の充足が無ければ、国は豊かさになりえない。一方で、発展によって人間が経済に振り回されることはあってはならない。身近な幸福、心の平静の価値を『道徳感情論』で再三指摘している。「真の幸福には心の平静が必要である。幸福を得るためには、人間はそれほど多くのことを必要としない」のだ。


 
 二点目は、公的な問題に自らを投企した姿勢だ。スミスの特徴は、労働者や生産者などの小さな声に耳を傾けたことにある。特権階級の資本独占や国家主導の産業構造では、労働需要はあまねく行き渡らない。貧富の差は拡大してしまう。自由で公正な市場経済開放を謳った思想背景には、現状に対するスミスの憤りがあった。人間の幸福とは心が平静になることである、その思想を支えたのは時代に抗する強い正義感と道徳心だった。
アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

 

 

アダム・スミス『国富論』(日本経済新聞社、2007年)を読んで

 『国富論』は、国家繁栄の原理を明らかにした書物である。スミスは、国の豊かさの本質は「労働」にあり、労働と土地が生む年間生産物の量が国の豊かさを担保すると述べる。では、年間生産物を増加させる要因は何か。スミスが提示するのは労働の「分業」概念である。当時の欧州各国は、重商主義に傾倒していた。しかし、その政策は国内労働を減少させ、国内産業を空洞化させるものだった。スミスは、本書で重商主義と植民地政策の問題点を踏まえ、望ましい富の蓄積と国家のあり方を提示する。

 

 「富の源泉」は金銀通貨の多寡ではなく「労働」にある。国の富とは、土地と労働による年間生産物の価値を指す。「労働生産性の向上」と「生産的労働者の増加」が、豊かさの鍵を握る。年間生産物とは、消費人口で割った必需品と利便品の総量だ。この総量を増加させる要因が、労働の「分業」である。分業は、労働生産性の向上をもたらす。生産物を交換したいという人間の「交換性向」、そして資財蓄積が市場を拡大しさらなる分業を促進させる。やがて、資本は幅広い分野の生産的労働者に分配され雇用が増大する。生産的労働者とは、必需品と便利品の生産に直接関わる資本蓄積の担い手だ。生産物の増加は、分業の促進と経済発展へ向けた資本蓄積に直結する。「国内の全住民の収入は必ず土地と労働による年間総生産物の価値に比例する」、とスミスは述べる。

 生産物の増加と分業の促進は、市場社会の形成へと結実する。市場では生産物の増加とともに物々交換から、貨幣が用いられるようになる。商品価格を構成する要素は「土地の地代、労働賃金、資本の利益」であり、その価値は「交換価値」と「使用価値」に類別される。生産に要した価格は「自然価格」、需要供給の一致で決まる価格は「市場価格」と呼ばれる。スミスは、長期的な均衡価格は自然価格によって決定されると論じた。市場に供給される商品の量は、有効需要によって自然に決定される。

 

 

 経済発展の順序は、農業、製造業、国内商業、外国貿易が望ましい。発展の初期では、資本の多くは農業に投下されるべきである。しかし、現実の発展順序は政府の浪費と資本階級の優遇によって妨げられていた。問題は、当時の重商主義政策である。重商主義は、国の富を金銀通貨とし、金銀の保有と外国貿易による利益の斡旋を是とする。しかし、外国貿易への過剰な資本投下は、農業や製造業への資本配分を妨げる。貿易を巡る抑制と規制は、国家間の「不和と敵対心」の源泉となっていた。スミスは、「国の富は土地と労働による年間生産物を増やすことにある」と繰り返し述べる。国家の義務は、個人の自由な経済活動を保障する事に専念すべきである。他国の暴力と侵略から国を守り、厳正な司法制度を確立し、公共財を維持する事に限り、市場が解決できる問題は市場の「見えざる手」に任せるべきだ、スミスはそう述べる。


 

 『国富論』の意義は、富の源泉を流通過程に求め、介入主義的政策を採用した重商主義を否定したことにある。富の源泉を生産過程に求めた重農主義の議論を継承しつつ、独自の理論を分業と労働生産性として発展させた。『国富論』で終始通底しているのは、経済活動の担い手がどのような労働を担っているのかという視点だ。スミスは、実際に起こった出来事や商品など具体的な事物を出発点にして議論を進めてゆく。

 

 スミスの経済思想を巡る一般的な理解は、利己心に基づいた個人の利益追求行動が市場の「見えざる手」を通じて社会の繁栄を促進する、というものだ。しかし、『国富論』と『道徳感情論』を踏まえると、そうした理解には留保条件が必要であることがわかる。スミスが想定していた「個人」とは、孤立した個人ではなく「社会関係の中に生きる個人」ということだ。スミスは前著、『道徳感情論』で「義務の感覚」に統御された競争の意義、そして人間の「同感」について考察している。財産を求め競争を促す野心は、義務の感覚の下で発揮される必要がある。正義観という「賢明さ」、名誉を求める「弱さ」、それぞれが「見えざる手」に導かれ健全な市場競争を促す。市場とは単なる競争の場ではなく互恵の場であり、外国貿易とは「連合と友好の絆」を結ぶ交流の場でもある。


 スミスは、市場は万能であるとも、経済成長はそれ自体が目的であるとも、また富の保有が幸福につながるとも述べていない。幸福には心の平静が最も大切であり「健康で負債がなければよい」と述べている。スミスの社会観は「同感」によって他人の感情を写し取ることで、社会の繁栄が支えられるというものだ。しかし、貧困状態におかれた人はその関係から切り離されてしまう。スミスは『道徳感情論』の後に『国富論』を書いた。その背景には、「分業」という富の生産概念をもって、人間の社会関係を再構築したことにあるのではないだろうか。

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)

 

 

 

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)

 

 

シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(東洋経済新報社、1995年)を読んで

  シュンペーターは、「資本主義は何を原動力にして進んでゆくのか」という資本主義の将来的ビジョンについて不吉に満ちた予言を暗示した。そもそも資本主義は自己崩壊へと歩む道のりを必然的に抱えている。本書で描かれるのは、そのプロセスと帰結する先の展望である。

 

 市場調整メカニズムの限界と財政政策を通じた有効需要の必要性を説いたケインズに対して、資本主義には新技術やイノベーションが不可欠だと看破したのが同時代に生きたシュンペーターである。資本主義の発展を支えるエンジンである「起業家精神」「創造的破壊」は、新技術や新組織形態を生むことで現存の産業社会の革新を促す。しかし、その過程は封建社会の制度的枠組みを破壊したのと全く同じ方法で、資本主義自体の制度的枠組みをもやがて破壊に導く。資本主義の非常な成功こそが、現状の社会制度を覆すことで逆説的にその存続を不可能たらしめるという。

 資本主義の発展的過程は、新市場の開拓や企業発展を始めとするイノベーションにある。絶えず内部からの経済構造を革命化する産業上の変異であり、古きを破壊し新しきを創造する経済変動の過程である。シュンペーターは、資本主義の抱える本質的事実は「創造的破壊」であると説く。

 

 しかし、資本主義はやがて終焉を迎えざるえない。なぜなら資本主義の発展は、経済進歩の機械化と官僚制を伴い、徐々に、企業家の資本主義へのエートスを奪っていくからだ。イノベーションにより成長した企業は、市場を独占し小生産者や小商人の市場をも収奪するに到る。経済的欲望の充足に伴い、起業家精神イノベーションは必然的に縮小する。合理主義の発展はやがて人々の道徳や慣習、規律を退廃させ、資本主義の発展そのものに敵対的な知識人を生み育てる土壌となる。「資本主義的企業者の非常な成功こそが、元来それと結びついているその階級の維新と社会的重要性を傷つけるにいたること、および巨大な企業単位がブルジョワジーの社会的重要性のよってたつ職能からブルジョワ自身を追い出すにいたる」[i]のだと著者は述べる。資本主義は、様々な要因が相まり漸次他の体勢に移行せざるを得ないのだ。

 

 また、資本主義には自己崩壊に向かう傾向が内在すると同時に、「資本主義過程はそれ自身の制度的枠組みを破壊するのみならず、また他の骨組みのための諸条件をも作り出す」[ii]要因をも併せ持っている。実際に、シュンペーターが唱える資本主義の未来図は、社会主義的因子としてすでに受容されつつある。それは、累進課税など税の再分配、物価への規制強化、社会保障制度、金融市場に対する公共的統制、公共的企業の拡大、そして完全雇用を目指す大量の公共管理だ。これら社会政策は、資本主義から社会主義へ到る可能性に拍車をかけるものである。社会的秩序は、資本主義が生む様々な要因、そして社会政策の相乗効果と相まって、社会主義的体制へと徐々にシフトしていくという。


 

 スミスやケインズの経済学は、同時代の経済現象の記述と実証分析であり、その眼目は「現状の資本主義経済をいかに改善するか」に焦点が当てられていた。スミスは富の源泉を労働が生む年間生産物の総量におき、ケインズは失業を解消する消費と投資の必要性を有効需要理論として説いた。分業理論を通じた生産性の向上、市場調整メカニズムの限界と財政政策を通じた総需要の底上げが、労働や資本投下の視点から論じられてきた。


 一方、シュンペーターに特徴的なのは景気循環の革新を担い、市場経済というゲームに参加する個々のプレイヤーである「企業家」に焦点をあてていることだ。資本主義を駆動するエンジンはイノベーションであり、企業家による新技術や新組織形態などの革新行動が、需要供給いずれにも起源をたどれない利潤を生み出す源泉である。しかし、革新自体が制度化され、日常業務に組み込まれてしまうことにより資本主義が終焉を迎える。特に興味深かったのは、この企業家とイノベーションを生み出すプロセスである。


 イノベーションを担う存在は、企業家だ。イノベーションとは偶然性が高く、それを生み出す企業家という立場は極めて不安定なものである。シュンペーター自身も、企業家を「成り上がりものとして社会で動き回るが嘲笑の的にされやすい」と、不遇で割に合わない存在として描いている。では、なぜこうした割に合わない仕事を実行するのか?その問いに対し、人々の潜在的に持つアイデンティティを求める闘争心に着目し、企業家の「成功から得られた果実ではなく、成功そのものを目的とする闘争衝動」によると説明している。闘争心や野心といった人間的な要素を経済学に組み込み、現実に沿ったものとして記述したシュンペーターイノベーション論には、現実の経済活動を担う人間的な臭いが通底していた。 

 

[i] シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(東洋経済新報社、1995年)P218

[ii] 〃P254

資本主義・社会主義・民主主義

資本主義・社会主義・民主主義

 

 

外岡秀俊『地震と社会』(みすず書房、1995年)を読んで

 

 関東大震災以降構築された「災害像」が阪神大震災までにいかに変容し、形成されていったのか。また都市計画や災害援助を巡る法的枠組みに、どのような影響を与えたのか。筆者は、歴史的に構築された「災害像」が災害防止に対する社会システムの綻びを形成してきたと指摘する。本書はその形成過程を検証し、それがいかに阪神大震災に影響を与えたか、歴史的視座の下に考察した本である。


 阪神大震災には、この国の問題点が強烈に集約されている。その問題が形成された基層として、筆者は関東大震災を検証する。関東大震災以降に形成され変容してきた概念が、「地震予知」と「安全神話」だ。


 筆者は、地震の「科学的予知」への期待が、皮肉にも国の防災対策に対する「不在証明」をもたらしたという。日本における地震学と地震予知計画は、関東大震災を起に始まった。現在では地震予知と聞くと、事前に地震発生の生起を知る科学的予知を思い浮かべる。しかし、当初の計画は事象の到来を予想し社会的に警告する「社会的予知」を指していたという。つまり、地震学者においても防災対策の喚起にこそ予知研究の眼目があった。しかし、事前予知に対する人々の期待の高まりとともに、予知の内実は変容していく。政治家と行政機構が主導し、予知計画は社会的予知から「科学的予知」へと舵を切る。科学的予知の社会的な一切の責任は専門学者に転嫁されつつ、科学的予知は「国家事業」として推進されて行った。科学的予知への偏重が、本来の防災対策をなおざりにしてしまう。そうした災害対策の死角を襲ったのが、阪神大震災だった。


 次に「安全神話」である。神話の形成とは、耐震設計基準の変容を指す。関東大震災直後、専門家が想定した基準は限られた特定の地理範囲に適用されるという留保条件があった。しかし黙約はやがて変容し、専門家すら気付かないうちに社会的了解事項となっていく。戦後の建造需要増加に伴う設計、施行、監理主の分業化が責任の分散化に拍車をかけたことも背景にある。耐震設計に対する社会的合意が明確にされないまま、技術への過信が「神話」を形成して行った。そうした潮流のなかで専門家は、

 

「責任と権限を持った技能集団ではなく、「神話」を解釈する巫女、ないしは予言者に近い集団に転化」(p279)

 

し、結果的に「安全安心」流布の担い手になっていったと言う。


 歴史的経過との関連で、阪神大震災を位置づける。すると、過去の「災害像」とその変容が、現代に大きな影響を与えていることがわかる。なぜ被災地における社会・産業基盤と個人の生活再建には格差が生じるのか、なぜ縦割りを打破する総合的な都市計画は挫折してきたのか、震災復興において中央省庁に対する「縦割り」への批判は起こらなかったのか。過去の震災対応における国の課題と批判は、阪神大震災そして東日本大震災と驚くほど酷似している。


 生活再建の問題は、1947年制定の災害援助法に遡る。1899年制定の罹災救助基金法は、戦前の唯一の災害援助制度であった。災害援助法は、この法律を受け新憲法の理念の下に制定された。しかし、戦災復興という社会状況に制約され、個人の生活再建は疎かなものだった。問題は、この法律で謳われた「最小限の救助」が、その後も一貫とした原則となったことである。1961年に災害復旧では公共施設の復旧に重点がかかる一方で、被災者個人の援護政策が疎かになる状況は阪神大震災まで続いた。


 一方、総合的な都市計画の挫折は1918年制定の都市計画法に遡るという。この法律は、都市計画の実施と事業実施を分断させるものである。つまり、事業計画は内務省主導の都市計画委員会に委ねる一方、事業執行に伴う責任と予算負担を地方公共団体に負担させるものであった。当然、地方公共団体都市計画法の費用負担より、より個別的な事業計画を選択せざるを得ない。結果的に、この法律は地方自治体を縦割りの「行政セクショナリズム」を強化するものとして機能した。


 この影響が集約されたのは、関東大震災後の東京市の復興計画である。当時東京市長であった後藤新平は「復興省」構想を立ち上げた。各省庁の事業計画と執行権限を一挙に集約させる事で、総合的な都市再建計画を主張したのである。しかし後藤の「復旧ではなく、復興を」のかけ声は官僚機構の抵抗にあい、権限と財源とともに骨抜きにされてしまう。財源を削られた復興院は、その所管業務もごく限定されたものになってしまった。復興計画の総合的な舵取りを担うはずの機関が、次第に狭義の業務に限定されていく。その変遷は、まさに東日本大震災における復興庁の変化を見るようである。都市計画法における中央省庁の権限は1968年に改訂された。しかし、新法においても国家が自治体を支配するという構造は受け継がれている。



 阪神大震災で明確になったことは省庁主導の中央統制型の防災体制の限界だった。特に被害の連鎖が予期される都市型災害に対しては、地域コミュニティと社会の残存能力を組み合わせる「ネットワーク型防災」の必要性を提言する。「ネットワーク型防災」とは、市民による自助努力と戦前の隣組の復活と捉えかねられない。そうした懸念に対して、著者が紹介するのは欧州における市民防衛の試みである。欧州の市民防衛体制は、冷戦下における国家安全保障体制の補完という位置づけの下で成立した。当然そうした歴史背景と土壌は決して無視できない。著者は「人間の安全保障」の視点から、国家へ依存しない協調体制の事例として欧州の防災体制を考察している。


 本書を読むと、震災対応における社会システムの綻びは、関東大震災から徐々に形成されてきたことがわかる。大震災発生のたびに「想定外」という言葉と、政府・行政機関の失敗が何度も繰り返されてきた。特に「関東大震災には耐えられる」とされた「安全神話の崩壊」、

 

消防庁、警視庁には或る程度情報が共有されながら、その経路となる国土庁で情報は断ち切られ官邸には届かなかった」(p102)

 

という情報伝達の齟齬、同様の問題が東日本大震災でも大きな話題になった。原発事故を受け「安全神話」の崩壊がさかんに叫ばれた。


 しかしそもそも安全神話など、この社会に存在していたのだろうか。地震学はその起源から科学的予知を想定していなかった。一方で、幾つもの前提や黙約は徐々に風化し、当初の理念とは異なる試みが国家事業として推進されていった。関東大震災から年月が経つにつれ、政府や行政、専門家は様々な過信から「なんとかなる」「大丈夫だろう」という方向性へと傾倒した。


 「私たちの文化から、阪神大震災の体験そのものが失われることは、ほぼ確実だろう。その時災害は、忘れた頃にやってくるのではなく、私たちが忘れたがゆえにやってくる」(P738)

 

のだ。現在に至る災害体制の基層は、過去の震災で構築した「災害像」をもとに徐々に形成されてきた。過去の理念と現実という、歴史の齟齬に対する著者の考察は重い。

 

 

地震と社会〈上〉「阪神大震災」記

地震と社会〈上〉「阪神大震災」記

 

 

地震と社会〈下〉

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