アダム・スミス『国富論』(日本経済新聞社、2007年)を読んで

 『国富論』は、国家繁栄の原理を明らかにした書物である。スミスは、国の豊かさの本質は「労働」にあり、労働と土地が生む年間生産物の量が国の豊かさを担保すると述べる。では、年間生産物を増加させる要因は何か。スミスが提示するのは労働の「分業」概念である。当時の欧州各国は、重商主義に傾倒していた。しかし、その政策は国内労働を減少させ、国内産業を空洞化させるものだった。スミスは、本書で重商主義と植民地政策の問題点を踏まえ、望ましい富の蓄積と国家のあり方を提示する。

 

 「富の源泉」は金銀通貨の多寡ではなく「労働」にある。国の富とは、土地と労働による年間生産物の価値を指す。「労働生産性の向上」と「生産的労働者の増加」が、豊かさの鍵を握る。年間生産物とは、消費人口で割った必需品と利便品の総量だ。この総量を増加させる要因が、労働の「分業」である。分業は、労働生産性の向上をもたらす。生産物を交換したいという人間の「交換性向」、そして資財蓄積が市場を拡大しさらなる分業を促進させる。やがて、資本は幅広い分野の生産的労働者に分配され雇用が増大する。生産的労働者とは、必需品と便利品の生産に直接関わる資本蓄積の担い手だ。生産物の増加は、分業の促進と経済発展へ向けた資本蓄積に直結する。「国内の全住民の収入は必ず土地と労働による年間総生産物の価値に比例する」、とスミスは述べる。

 生産物の増加と分業の促進は、市場社会の形成へと結実する。市場では生産物の増加とともに物々交換から、貨幣が用いられるようになる。商品価格を構成する要素は「土地の地代、労働賃金、資本の利益」であり、その価値は「交換価値」と「使用価値」に類別される。生産に要した価格は「自然価格」、需要供給の一致で決まる価格は「市場価格」と呼ばれる。スミスは、長期的な均衡価格は自然価格によって決定されると論じた。市場に供給される商品の量は、有効需要によって自然に決定される。

 

 

 経済発展の順序は、農業、製造業、国内商業、外国貿易が望ましい。発展の初期では、資本の多くは農業に投下されるべきである。しかし、現実の発展順序は政府の浪費と資本階級の優遇によって妨げられていた。問題は、当時の重商主義政策である。重商主義は、国の富を金銀通貨とし、金銀の保有と外国貿易による利益の斡旋を是とする。しかし、外国貿易への過剰な資本投下は、農業や製造業への資本配分を妨げる。貿易を巡る抑制と規制は、国家間の「不和と敵対心」の源泉となっていた。スミスは、「国の富は土地と労働による年間生産物を増やすことにある」と繰り返し述べる。国家の義務は、個人の自由な経済活動を保障する事に専念すべきである。他国の暴力と侵略から国を守り、厳正な司法制度を確立し、公共財を維持する事に限り、市場が解決できる問題は市場の「見えざる手」に任せるべきだ、スミスはそう述べる。


 

 『国富論』の意義は、富の源泉を流通過程に求め、介入主義的政策を採用した重商主義を否定したことにある。富の源泉を生産過程に求めた重農主義の議論を継承しつつ、独自の理論を分業と労働生産性として発展させた。『国富論』で終始通底しているのは、経済活動の担い手がどのような労働を担っているのかという視点だ。スミスは、実際に起こった出来事や商品など具体的な事物を出発点にして議論を進めてゆく。

 

 スミスの経済思想を巡る一般的な理解は、利己心に基づいた個人の利益追求行動が市場の「見えざる手」を通じて社会の繁栄を促進する、というものだ。しかし、『国富論』と『道徳感情論』を踏まえると、そうした理解には留保条件が必要であることがわかる。スミスが想定していた「個人」とは、孤立した個人ではなく「社会関係の中に生きる個人」ということだ。スミスは前著、『道徳感情論』で「義務の感覚」に統御された競争の意義、そして人間の「同感」について考察している。財産を求め競争を促す野心は、義務の感覚の下で発揮される必要がある。正義観という「賢明さ」、名誉を求める「弱さ」、それぞれが「見えざる手」に導かれ健全な市場競争を促す。市場とは単なる競争の場ではなく互恵の場であり、外国貿易とは「連合と友好の絆」を結ぶ交流の場でもある。


 スミスは、市場は万能であるとも、経済成長はそれ自体が目的であるとも、また富の保有が幸福につながるとも述べていない。幸福には心の平静が最も大切であり「健康で負債がなければよい」と述べている。スミスの社会観は「同感」によって他人の感情を写し取ることで、社会の繁栄が支えられるというものだ。しかし、貧困状態におかれた人はその関係から切り離されてしまう。スミスは『道徳感情論』の後に『国富論』を書いた。その背景には、「分業」という富の生産概念をもって、人間の社会関係を再構築したことにあるのではないだろうか。

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)

 

 

 

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)