堂目卓生『アダム・スミス』(中央公論新社、2008年)を読んで

 本書の目的は、『道徳感情論』におけるアダム・スミスの人間観を考察し、『国富論』に結実する経済思想とその現代的意義を再構築することにある。


 『道徳感情論』では、「義務の感覚」に統御された競争の意義が考察される。スミスは、社会の秩序と繁栄を導く原理は人間の「賢明さ」と「弱さ」にあるという。人間の心には「公平な観察者」に従う正義の声と、世間からの賞賛を求めようとする欺瞞の声がある。無制限の利己心や自己愛は「一般的諸規則」により制御されなければならない。一般的諸規則とは、社会通念を考慮する義務の感覚だ。義務の感覚は、人間に正義と慈恵を要請する。有害な行為に対する憤慨、嫌悪、恐怖が法という正義の体系を生んだ。一方、人間の「弱さ」にも社会的な役割がある。それは、財産や名誉を求め競争を促す野心だ。富の増大のためには、貪欲や虚栄も必要である。しかし、義務の感覚を考慮しない競争や道徳のない野心は社会から排撃される。そこで、人間は「賢明さ」と「弱さ」の関係を考慮し日々生活している。社会秩序と繁栄の基礎を支えるこの自然摂理を、スミスは「見えざる手」と名付けた。


 
 国際秩序の形成と維持にも、本来は「公平な観察者」の原理が働くという。外国貿易は国民間に「同感」を形成し、国際法を結実させる。外国貿易を通じた交流は、やがて国民間の偏見を融解し「連合と友好の絆」を築く。スミスはそう考えた。しかし、現実の外国貿易は国家間の「不和と敵意の源泉」にすらなっている。その理由として、スミスは重商主義政策と肥大化する外国貿易の是正を指摘した。当時の欧州各国は、外国貿易拡大と植民地獲得に邁進した結果、農業や製造業などの国内産業が空洞化していた。



 特権商人や大製造業者が権益を斡旋し、貿易決済品となる金銀に資本が過剰投下されていたことが原因だ。本来、経済発展は剰余生産物の増加に伴う農業、製造業、外国貿易の部門拡張によって拡大する。国の豊かさを邁進させるのは、労働生産性の上昇、分業に伴う生産部門の労働者増加だ。しかし、政府の浪費や資本階級の優遇によって、本来的な経済発展の順序は妨げられてきた。スミスは、この不均衡な経済発展に邁進する欧州各国に警鐘を鳴らす。現状に至った欧州の歴史を概括し、経済発展のあるべき一般原理をまとめた著作が『国富論』である。『国富論』では、繁栄の一般原理として「分業」と「資本蓄積」が考察される。分業は生活水準を向上させ、資本の蓄積は投資を加速する。資本投資は農業、製造業、外国貿易の順序が望ましい。この順序は、生活を営む必要性、投資の安全性、土地への本性的愛着に基づく。ものごとの自然な成り行きに従った経済発展とは何か、スミスは本来の経済発展の経路に復帰するための構想を展開する。


  
  本書で明らかになるのは、スミスの人間の本質を見抜く洞察力、人類の存続と繁栄を願う情熱に溢れた人間性である。特に『道徳感情論』には、スミスの人間観と社会観が凝縮されている。私は本書を読んで、アダム・スミスという人はある意味で、非常にジャーナリスティックな感性をもった人だったのではないかと感じた。その理由は、自らの思想の立脚点を国家の発展ではなく個人生活の充足に置いたこと、国家の浪費と資本家の権益独占に対して経済政策の代替をもって反証したこと、「国益」という言葉でカモフラージュされる植民地拡大と戦争遂行のための国債調達に、明確に反論したことだ。また、アメリカ植民地の独立運動を考慮し植民地の自発的分離と独立国承認を政府に提言した逸話、外国貿易は国民間の交流を深め「連合と友好の絆」の国際法を築くという構想は、スミスのジャーナリスト性を伺わせる考察と感性に満ちている。


 
 では、現代社会に向けてスミスが残した遺産は何か。一点目は、人間が抱える「弱さ」に焦点をあてたことだろう。スミスは、人間の弱さが社会を発展させた指摘する。社会発展の基盤は共感と道徳心にある。また、経済発展の主体は国家ではなく生産者と労働者が生み出す「労働価値」だ。個人の充足が無ければ、国は豊かさになりえない。一方で、発展によって人間が経済に振り回されることはあってはならない。身近な幸福、心の平静の価値を『道徳感情論』で再三指摘している。「真の幸福には心の平静が必要である。幸福を得るためには、人間はそれほど多くのことを必要としない」のだ。


 
 二点目は、公的な問題に自らを投企した姿勢だ。スミスの特徴は、労働者や生産者などの小さな声に耳を傾けたことにある。特権階級の資本独占や国家主導の産業構造では、労働需要はあまねく行き渡らない。貧富の差は拡大してしまう。自由で公正な市場経済開放を謳った思想背景には、現状に対するスミスの憤りがあった。人間の幸福とは心が平静になることである、その思想を支えたのは時代に抗する強い正義感と道徳心だった。
アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)