外岡秀俊『地震と社会』(みすず書房、1995年)を読んで

 

 関東大震災以降構築された「災害像」が阪神大震災までにいかに変容し、形成されていったのか。また都市計画や災害援助を巡る法的枠組みに、どのような影響を与えたのか。筆者は、歴史的に構築された「災害像」が災害防止に対する社会システムの綻びを形成してきたと指摘する。本書はその形成過程を検証し、それがいかに阪神大震災に影響を与えたか、歴史的視座の下に考察した本である。


 阪神大震災には、この国の問題点が強烈に集約されている。その問題が形成された基層として、筆者は関東大震災を検証する。関東大震災以降に形成され変容してきた概念が、「地震予知」と「安全神話」だ。


 筆者は、地震の「科学的予知」への期待が、皮肉にも国の防災対策に対する「不在証明」をもたらしたという。日本における地震学と地震予知計画は、関東大震災を起に始まった。現在では地震予知と聞くと、事前に地震発生の生起を知る科学的予知を思い浮かべる。しかし、当初の計画は事象の到来を予想し社会的に警告する「社会的予知」を指していたという。つまり、地震学者においても防災対策の喚起にこそ予知研究の眼目があった。しかし、事前予知に対する人々の期待の高まりとともに、予知の内実は変容していく。政治家と行政機構が主導し、予知計画は社会的予知から「科学的予知」へと舵を切る。科学的予知の社会的な一切の責任は専門学者に転嫁されつつ、科学的予知は「国家事業」として推進されて行った。科学的予知への偏重が、本来の防災対策をなおざりにしてしまう。そうした災害対策の死角を襲ったのが、阪神大震災だった。


 次に「安全神話」である。神話の形成とは、耐震設計基準の変容を指す。関東大震災直後、専門家が想定した基準は限られた特定の地理範囲に適用されるという留保条件があった。しかし黙約はやがて変容し、専門家すら気付かないうちに社会的了解事項となっていく。戦後の建造需要増加に伴う設計、施行、監理主の分業化が責任の分散化に拍車をかけたことも背景にある。耐震設計に対する社会的合意が明確にされないまま、技術への過信が「神話」を形成して行った。そうした潮流のなかで専門家は、

 

「責任と権限を持った技能集団ではなく、「神話」を解釈する巫女、ないしは予言者に近い集団に転化」(p279)

 

し、結果的に「安全安心」流布の担い手になっていったと言う。


 歴史的経過との関連で、阪神大震災を位置づける。すると、過去の「災害像」とその変容が、現代に大きな影響を与えていることがわかる。なぜ被災地における社会・産業基盤と個人の生活再建には格差が生じるのか、なぜ縦割りを打破する総合的な都市計画は挫折してきたのか、震災復興において中央省庁に対する「縦割り」への批判は起こらなかったのか。過去の震災対応における国の課題と批判は、阪神大震災そして東日本大震災と驚くほど酷似している。


 生活再建の問題は、1947年制定の災害援助法に遡る。1899年制定の罹災救助基金法は、戦前の唯一の災害援助制度であった。災害援助法は、この法律を受け新憲法の理念の下に制定された。しかし、戦災復興という社会状況に制約され、個人の生活再建は疎かなものだった。問題は、この法律で謳われた「最小限の救助」が、その後も一貫とした原則となったことである。1961年に災害復旧では公共施設の復旧に重点がかかる一方で、被災者個人の援護政策が疎かになる状況は阪神大震災まで続いた。


 一方、総合的な都市計画の挫折は1918年制定の都市計画法に遡るという。この法律は、都市計画の実施と事業実施を分断させるものである。つまり、事業計画は内務省主導の都市計画委員会に委ねる一方、事業執行に伴う責任と予算負担を地方公共団体に負担させるものであった。当然、地方公共団体都市計画法の費用負担より、より個別的な事業計画を選択せざるを得ない。結果的に、この法律は地方自治体を縦割りの「行政セクショナリズム」を強化するものとして機能した。


 この影響が集約されたのは、関東大震災後の東京市の復興計画である。当時東京市長であった後藤新平は「復興省」構想を立ち上げた。各省庁の事業計画と執行権限を一挙に集約させる事で、総合的な都市再建計画を主張したのである。しかし後藤の「復旧ではなく、復興を」のかけ声は官僚機構の抵抗にあい、権限と財源とともに骨抜きにされてしまう。財源を削られた復興院は、その所管業務もごく限定されたものになってしまった。復興計画の総合的な舵取りを担うはずの機関が、次第に狭義の業務に限定されていく。その変遷は、まさに東日本大震災における復興庁の変化を見るようである。都市計画法における中央省庁の権限は1968年に改訂された。しかし、新法においても国家が自治体を支配するという構造は受け継がれている。



 阪神大震災で明確になったことは省庁主導の中央統制型の防災体制の限界だった。特に被害の連鎖が予期される都市型災害に対しては、地域コミュニティと社会の残存能力を組み合わせる「ネットワーク型防災」の必要性を提言する。「ネットワーク型防災」とは、市民による自助努力と戦前の隣組の復活と捉えかねられない。そうした懸念に対して、著者が紹介するのは欧州における市民防衛の試みである。欧州の市民防衛体制は、冷戦下における国家安全保障体制の補完という位置づけの下で成立した。当然そうした歴史背景と土壌は決して無視できない。著者は「人間の安全保障」の視点から、国家へ依存しない協調体制の事例として欧州の防災体制を考察している。


 本書を読むと、震災対応における社会システムの綻びは、関東大震災から徐々に形成されてきたことがわかる。大震災発生のたびに「想定外」という言葉と、政府・行政機関の失敗が何度も繰り返されてきた。特に「関東大震災には耐えられる」とされた「安全神話の崩壊」、

 

消防庁、警視庁には或る程度情報が共有されながら、その経路となる国土庁で情報は断ち切られ官邸には届かなかった」(p102)

 

という情報伝達の齟齬、同様の問題が東日本大震災でも大きな話題になった。原発事故を受け「安全神話」の崩壊がさかんに叫ばれた。


 しかしそもそも安全神話など、この社会に存在していたのだろうか。地震学はその起源から科学的予知を想定していなかった。一方で、幾つもの前提や黙約は徐々に風化し、当初の理念とは異なる試みが国家事業として推進されていった。関東大震災から年月が経つにつれ、政府や行政、専門家は様々な過信から「なんとかなる」「大丈夫だろう」という方向性へと傾倒した。


 「私たちの文化から、阪神大震災の体験そのものが失われることは、ほぼ確実だろう。その時災害は、忘れた頃にやってくるのではなく、私たちが忘れたがゆえにやってくる」(P738)

 

のだ。現在に至る災害体制の基層は、過去の震災で構築した「災害像」をもとに徐々に形成されてきた。過去の理念と現実という、歴史の齟齬に対する著者の考察は重い。

 

 

地震と社会〈上〉「阪神大震災」記

地震と社会〈上〉「阪神大震災」記

 

 

地震と社会〈下〉

地震と社会〈下〉